ホワイトデー 〜2006.3.14〜  例の魔の日から早ひと月。 とはいえ、今日はまだ13日なので正確にはまだひと月経ってはいない。 何かあるとしたら明日、である。 日々強まっていく嫌な緊張感。 恐らく今日がピークであろう……というか、そうであると信じたい。  あの後占い師さんはと言えば、ご本人のご要望通りヒスイと出掛けてみたり ヒスイの家に来てみたりなど、まぁおよそ普通の恋人同士っぽいであろう行動に出ていた。 一応断っておくと、手を握られてドキドキだの、キスしちゃったーだのというような薄ら寒い要素はもちろん無かった。 どちらかと言えばヒスイが四六時中びくびくしていた上に警戒心丸出しだったため、 万が一占い師さんが手を出したいと思っていたとしても、それは叶わなかったであろう。 訪問時については、普通に玄関から入ってくることもあったのだが…… 気が付くと背後にいたりして、非常に心臓に悪い。 落ち着いて陰口も言えやしない。  トワさんとライアの方であるが、一応反省の色はあるようである。 占い師さんとデートをして帰ってくると、ヒスイはまぁ、言うならば衰弱しているのだが 特にトワさんは家事も手伝ってくれるようになったし、心配そうな仕草を見せてくれた。 まぁやはり、だからと言って何が癒える訳でもないのだが。 ライアについては心配というよりも、哀れみが強かった。 ただ以前よりもヒスイに対して無口になったあたり、何かしらの心境の変化が伺えるというだけである。 相変わらず、何を考えているのかはよく分からない。  さて、そんな感じで過ごしてきて、13日。 朝刊を出そうと郵便受けを覗いたヒスイは、そこに珍しい物を発見した。 白くて厚めの、長方形に折られた和紙。 丁度上下に当たる位置は、後ろ側に向かって大きく折られている。 形としては……そう、ちょうど「果たし状」なんて書かれていそうな物体だった。 「果たし状」の文字の代わりに「皆様へ」という細身の綺麗な筆文字が、その紙の前面に書かれている。 裏側の折られた部分をめくってみると、予想通りではあったが……占い師さんの名が書かれていた。 やはりというか、占い師さんの手記のようだ。 そういえば、彼の文字を見るのは初めてだ。  肌寒い朝の空気の中だが、何となくすぐ読まないとまずいような気がする。 今までは電話や直接顔を合わせてきたのだ。 それが今更になってから、わざわざ手紙とは何事だろう。 そう、興味を引くには充分、だったのである。  ガサガサと、誰に遠慮するでもなくヒスイはそれを開く。 とはいえ簡単に折りたたんだだけの封筒なので、数秒とかからない。 中に入っていたのは、1枚の短冊のようなものだった。 これならハガキでも良かったのではないか……と、ふと思ってしまう。 ……じゃなくて。 思考の軌道を修正すると、相変わらずの綺麗な文字を目で追ってみることにする。 そこに書かれていた文章は、極々短いものであった。  「明日、先月のお返しのためにそちらに伺います。」 以上、終了。  今まで何の前触れもなく訪れていたのに、わざわざこんな物を寄越すとは何事だ。 そもそも「ホワイトデーをお楽しみにね」なんて言っていたのだから、14日に訪れてくるであろうことは予想済みである。 しかも電話でも、会って直接言うでもなく、手紙である。 改めて封筒代わりの厚紙を見てみるが、これには切手も消印もない。 つまり、恐らくは占い師さん本人が、この郵便受けに入れたのだろう。 ……声も掛けずに?  無駄か。 ヒスイは一度、考えるのを中断することにした。 どうせヒスイには、占い師さんの思考回路なんて奇っ怪すぎて理解出来ないのである。 こうかと思えば深読みし過ぎだと言われたりしてきたのだ。 最早頭の作りが自分とは違うんだと考えた方が良さそうである。  ああでも、しかし。 わざわざこんな手紙を投げ入れてきたということは、今日は連絡も訪問もないという事だ。 恐らくそれだけは確かである。 そう思えば、今日はゆっくりできるというものだ。 とりあえず宛名が「皆様へ」となっているので、これを世帯の人間に見せるとしよう。  短冊を厚紙に包み直すと、郵便受けから新聞を引きずり出し、玄関へと踵を返す。 下駄箱の上に新聞を置き、ガラスのはまったリビングダイニングへのドアを開いた。 「こんな物が入ってました」 明るい色のダイニングテーブルに、先ほどの手紙を滑らせる。 今テーブルについていたのは、コヨミさんとライアだった。 リビングの方にいたトワさんもこちらに気が付き、顔を向けた後立ち上がる。 「何これ?」 最初に反応したのはライアだ。 密かに眉をひそめた辺り、差出人に勘づいたようだ。 和紙であることを見れば、確かに予想も付くのであるが。 コヨミさんは無遠慮に手紙を持ち上げ、裏側を見る。 「あら、彼氏から?」 「はい、占い師さんからです」 「もう、恋人なんだから名前で呼んであげなさいよっ。職業名で呼ばれるのもナンでしょ?」 出来るだけ距離を離しておきたいからこそ、そう呼んでいるんですが。 「で、何? ラブレター?」 「皆様宛でそれは無いんじゃないの?」 コヨミさんの浮ついた発言を、ライアがぴしゃりと抑える。 「ってか、今更だよな、ラブレターにしちゃ」 こちらに到着したトワさんも口を挟む。  コヨミさんは手で持ったままの手紙を、これまた無遠慮に開いていく。 まぁ皆様宛なのだから、ヒスイがどうこういう筋合いも無いのだが。 「あら、明日いらっしゃるのね」 中の短い文章を見て、それだけ言った。 こういう反応を見ると、やはり自分は深読みというか、ゴチャゴチャ考え過ぎなのかもしれないと思う。 丁度コヨミさんの後ろに立っていたトワさんは「うわぁ」という顔をしている。 血のつながりか、ライアだけが 「なんで今更わざわざこんな物?」 とだけ呟いていた。 「まぁせっかくこうして事前に知らせてくれたんだし、お食事の準備でもしておいてあげたら?」 コヨミさんはそう言って笑むと、手紙をテーブルに戻した。 それもそうか、とは思った物の…… 改めて考えてみれば、時間などの指定が全くない事に気が付く。 用意するならするで、冷めてしまってはナンであるし、やりにくいことこの上ない。 いっそ焼きそばでも作ってラップしておこうか……いやいや、流石にそれは。 「何時頃来んだろーな?」 トワさんだった。 「まさか今夜、日付変更と同時に来るとかじゃねぇだろうなぁ……」 ……あり得る。 「ま、常識で考えたら昼間だよね」 ええ、常識で考えれば。 ライアと目線がかち合い、何だか猛烈に親近感の湧いたヒスイだった。  そしてその日の夜、11時半。 そろそろ落ち着かなくなってくる頃である。 いつも通り夕飯を食べて片づけをし、食後のお茶を飲んで、バラバラと解散していく時刻。 男3人はどうすべきかとリビングダイニングに残り、のろのろと時が刻まれていくのを待っていた。 「……一応、12時まで待ってから寝ようかと思うんです」 ヒスイはボツリとそう言った。 「そーだな……」 「じゃあ僕も付き合うよ」 トワさんはともかく、ライアのこの微妙な優しさが余計に緊張感を生む。 喉は先ほど潤してしまったため、することもない。 とてもじゃないが、明るい空気とは言い難い。 このままでは、来る前に例の衰弱状態になってしまうだろう。 「っていうか、日付変更したらいつ来たっておかしくない訳だよね」  言ったのはライア。 また、そう眠れなくなるような発言を。 「……交替で寝るか?」 「……トワさん、そんな野宿の見張りでもあるまいし」 「まぁ敵と言えば敵みたいなモンだけどね……」 たしかに。  鉛のように重たい一時を過ごし、時計の針はやっと12時を越えた。 年明けの様に清々しくなどはならないが、決意していた時間になったので解散、ということになる。 「じゃあ、休みましょう……か」 「そだね……」 それぞれが大きなため息をつき、ダイニングテーブルから立ち上がる。 2階に上がり、それぞれが自室に入っていった。  そして翌朝、いつも目が覚める時間帯に目を覚ました。 何だかんだ言って、いつも通り寝たのかと思いながら体を起こす。 さて、今日は油断出来ない。 いつ来るのかすら分からないのだから。 今だって、キッチンに降りていったら居るのかも知れないのだ。 嫌な緊張感で吐き気がしたが……吐く物も無いし、とりあえず着替えて降りてみる事にする。  壁に手を沿わせながら、ゆっくりと階段を下り、リビングの戸を開く。 ざっと見渡してみたが、どうやらいないようだ。 ひとまず安心、といった所か。  とりあえず、朝食を作らなくては。 卵とサニーレタスとハムと……と思いながら、冷蔵庫の扉に手を掛ける。 …………まさか。 いや、そんな馬鹿な、中にいる訳ないじゃないか。 自分の混乱振りに半ば呆れながらも、少々本気で怯えながら冷蔵庫を開く。 当たり前だが、中には適度に食材が詰まっているだけで、和服の占い師が挨拶してくる訳はなかった。 今更ながら、自分の思考回路がノイローゼ化しつつあることに気が付いて苦笑する。  他のメンバーが起きてくるのを待ちながら、黙々と朝食を作る。 占い師さんの分はどうしよう……作っておくべきか。 いや、まぁ簡単な物だし、来たら来たでその時作ればいいか。  彼の襲来……否、訪問については、昨日の内に全員に伝えておいた。 イオリさんとアズマさんは特に動じることもなく、いつも通りに過ごすつもりの様だ。 いつものようにということは、彼女らが起きてくるのは10時は過ぎるという事である。  ライアも比較的遅めだが、昨日の様子から考えても今日は早めに起きてきてくれるかも知れない。 トワさんは割と早く起きてくるので、もうそろそろかも知れない。 そんなことを悶々と考えながらレタスをちぎっていると、洗面所方面から聞き慣れた機械音が聞こえてくる。 あれ? と思って振り向いてみると、トワさんとライアだった。 ライアはどうもまだ眠いらしく、普段に輪を掛けて憮然な顔をしている。 トワさんはそんなライアに苦笑してから、こちらに向き直って「よぉ」と言った。 「洗濯機、回し忘れてたろ?」 「おはようございます……ああ、そういえば……」 普段は朝食を作る前に洗濯を始めるのだが、今日は動揺のあまりかすっかり忘れていた様だ。 「回してきたから」 挨拶もせずにライアはそう言い放つと、やはりダイニングの定位置についた。 多分2人とも気を遣ってくれてるのだろう。 それか、余裕がないあまりに何かしてないと精神が持たないか。 ……いや、とりあえず前者ってことにしておこう。  食事を終え、洗濯物も干し終わり、掃除も終わり。 時刻は昼になってしまった。 イオリさんも起きだしてきたし、アズマさんも顔を見せ、再び地下室に降りていった。 コヨミさんは電卓とチラシを持ち出し、いつも通り計算に励んでいる。 占い師さんはといえば、まだ来ない。 もしかして来ないんじゃないかとも思うのだが、冷蔵庫に貼ってある占い師さんからの手紙を見ると そんな考えは甘いんだなと思い知らされるのである。  セールスだの勧誘だのでインターホンが鳴る度に、ヒスイ、ライア、トワの3人に緊張が走る。 緊張というよりも恐怖感に限りなく近い。 いっそ来てしまえば楽なのに……いや、楽でもないのだが。 来てしまえば楽だという自分の考えすらも甘い。 そんなことは分かっているのだが。  トワさんは見ると明らかに怯えた顔をしているので分かりやすいが、今日はライアも相当なものである。 多分、日常生活でこんなに緊迫したライアの顔なんて今後見れないと思われる。 かく言うヒスイも無駄にお茶を入れ直したりと、かなり落ち着かない。  結局占い師さんの訪問も待たずに、景色は夜へと近づいてきてしまった。 しかし、何せ神出鬼没の彼のことである。 本当に、いつ来たっておかしくはないが故に、緊張は解けない。 この時間になって、ヒスイはやっと気が付いた。 「手紙を出す」という行為が意味していたところ、そしてこの時間になっても連絡の一つも寄越さない彼。 つまりあの人は、今日は来る気なんて毛頭無かったのでは……?  なるほど、それがそうだとしたら非常に巧い。 幸いヒスイは占い師さんとの接触が多かったのでこの時間帯に気が付けたが、あの2人ではそうはいくまい。 どうしよう、言うべきか……しかし、ヒスイにも確信はない。 変に期待させるのも可哀想だと思う反面、こんな所で楽になどさせるかという思いも入り交じり…… やはり、日付変更まで緊張させておくことにしたのである。  そして、そのままずるずると、時刻は夜の12時に近づいていた。 日付変更に限りなく近く、やっと、トワさんとライアにも諦めと安堵の色が見え始める。 ライアに関しては「ぐったり」という表現がよく似合いそうだ。 この種のプレッシャーには慣れていないのだろう。  ヒスイは少々の恨みがあったため、緊迫した振りをし続けていた。 トワさんはそんなヒスイをずっと気遣ってくれている。 胸が痛まないでもないが、まぁそれぐらいは許されて然るべきだろう。 本来なら、この人が一番苦しまなければならないのだから。  時計は、12時を過ぎた。  今度こそ年明けの様な、妙な安堵感が広がる。 「来なかったなー」 急に気楽になったのか、トワさんが唐突にそう言った。 「まったく、来ないなら来ないで連絡入れてくれればいいのに……」 ライアは疲れた顔で、冷蔵庫に貼られた手紙を睨む。 ヒスイは……苦笑する他なかった。  と、その時。 玄関で音がした。 ヒスイでなくとも、その音の主は分かっただろう。 茶髪の、緑の目の、和服の、実は美形な腹黒占い師だった。 「やぁ、こんばんは」 にこりと挨拶をする。 「お前、こんばんはじゃねぇだろっ! こんな手紙寄越しておいて……結局昨日中に来なかったじゃねぇか!」  どうやら疲労が怒りに変換されたらしい。 トワさんは冷蔵庫の手紙を剥がし、占い師さんに突きつけた。 「ああうん、昨日は来るつもり無かったから。ヒスイ君は気が付いたみたいだけど?」 ねー? と、ヒスイに振る。 「あ……はい」 「マジで!?」 「兄さん……?」 トワさんは驚愕を、ライアは怒りを向けてきた。 多分ライアはこれがどういう「仕返し」だったのかを理解したのだろう。 「あ、トワ君は分からないみたいだねぇ」 あはは、と愉快そうに笑う。 どこまで黒いんだこの人……気まずい顔をしたまま、ヒスイは呆然と占い師さんを見つめた。 「ヒスイ君からの伝言じゃなくて、手紙って言う物的証拠を残すことで、君らにプレッシャーを与え続けてたの」 突きつけられた手紙を指してから受け取り、ビリビリと真っ二つに破る。 「仕返しはこれでお終い。3人とも、お疲れ様☆」  こうして、バレンタインからの一件は、仕返しをもって一応の決着がついたのであった。 占い師さんはその翌日からまた旅に戻るからと言い、恋人状態を破棄してくれた。 「遠距離恋愛で良ければお付き合い続けてもいいけど?」 「……結構です。お友達以上は望みません」 ということで、この件はこれで落着、ということで。 一応旅に戻った占い師さんですが、私が思い付けばまた登場するかも知れません。 私なら多分、このやり方が一番辛いかなぁと思ってこういうやり口にしました。 そもそも占い師貧乏だし、お返しで変な物買ってくるとかも出来ませんので。  まがいなりにも決着がついて良かったなと、一人満足しております。 読んで下さった方、お付き合いありがとうございました!